絵や照明は、目で見るものです。
でも、お香は少し違います。
火をつけると、細い煙がゆらりと立ち上がって、さっきまでと同じ部屋なのに、空気の印象が少し変わる。
目には見えないけれど、これもちゃんと部屋の一部。
私にとってお香は、「住める展示」の中にある、空気の展示みたいなものです。
使っている香立ては、昔どこかで買ったもの。
正直、どこで買ったのかもう覚えていません。
でも、こういうものは気に入ると長く使う。
香りだけではなく、そこに立ち上がる煙まで含めて好きです。

香りの原点は、実家の仏壇
実家には仏壇があります。
毎朝、お線香をあげて、のんのんする。
子どもの頃からそれが普通でした。
だから私にとって線香の香りは、特別なものというより、昔から知っている落ち着く香りです。
ただし、線香なら何でも好きというわけではありません。
香りが合わず、
「これはちょっと苦手だな」
と思うものもあります。
一方で、少し良い線香には、なんともいえない「お寺の匂い」がするものがある。
木のような、少し乾いたような、静かな香り。
あれが好きです。
今こうして家でお香を焚いているのも、たぶん原点はここにあります。
『ダーリンは外国人』で香道を知った
そんな私が、線香をただの日用品ではなく「香り」として意識するようになったきっかけが、『ダーリンは外国人』でした。
作中で香道が取り上げられていて、
香りを聞く。
そんな文化があることを知りました。
それまで仏壇で毎朝嗅いでいたものと、歴史や文化としての香り。
同じ線上にあるものなのに、急に違って見えたのを覚えています。
それから京都を一人旅したとき、香の専門店にも行ってみました。
西本願寺の近くにある、薫玉堂です。
京都の老舗に行った。そして場違いだった
入ってみると、想像していた以上に世界が違いました。
香木には、
「木ですよね?」
と二度見したくなるような値段がついている。
歴史を感じる品が並んでいて、空気そのものが高級というか、高貴というか。
一方こちらは、完全なる旅行者スタイル。
場違い。
とても場違い。
それでも気になったので、二度目も行きました。
「一回行ったことあるし、今度は大丈夫では?」
と思いました。
大丈夫ではありませんでした。
さらに三度目。
やっぱり場違いでした。
三回行っても慣れないものは慣れない。
結局、当時の私が手に取りやすかった文香や匂い袋を買って帰りました。
いきなり香木の世界へ飛び込むことはできませんでしたが、香りを家に持ち帰ることはできた。
今思うと、私はそのくらいの距離感から始めるのがちょうどよかったのだと思います。
ちなみに、そのとき買ったうちの一つは、今も手元にあります。
薫玉堂の「和(やわらぎ)」。
香りは、私には少し甘め。
10年以上経つのに、まだ使い切っていません。
もったいなくて、なかなか焚けなかった。

遠かった香りが、少しずつ日常へ
それから何年も経って、東京でも薫玉堂の商品を見かけるようになりました。
昔は京都の老舗まで行って、緊張しながら眺めていたものが、ずっと身近な場所に並んでいる。
これなら買えるぞ。
香りとの距離が一気に縮まりました。
私は香道を極めたいわけではありません。
香木の産地を言い当てたいわけでもない。
ただ、
この香り、好きだな。
と思ったものを、自分の部屋で焚きたい。
今はそれで十分です。
白檀より、沈香が好き
いろいろ試してみると、自分の好みも少しずつ分かってきました。
私は、白檀より沈香の方が好きです。
白檀は、私には少し甘く感じることが多い。
伽羅も、ものによっては少し甘い。
その伽羅に、のちにデパートの化粧品売場で再会することになります。
沈香の方が、甘さが控えめで、木っぽく、落ち着いて感じます。
ただし、香木の名前だけで好き嫌いを決めることはできません。
白檀でも好きなものがあります。
たとえば「由比ヶ浜」。
これは焚くと、昔行った親戚の家を思い出します。
山の中にあった日本家屋で、庭には鯉。
今となっては細かいところまで覚えているわけではないのに、香りを嗅ぐと、なぜかあの家の空気が戻ってきます。
香りは、記憶との結びつきが妙に強い。
そこも面白いところです。
名前が同じでも、香りは全然違う
今使っているものの中では、TJ TRAD JAPANの「特製 沈香」が、私にとって一番スタンダードです。
癖が強すぎず、普段使いしやすい。
「沈香ってどんな香り?」
と聞かれたら、自分の中ではこのあたりを基準に考えています。

一方、台湾で買った馨心齋のものは、もっとスパイシー。
少し異国っぽい香りがします。
同じ「沈香」と書いてあっても、全然違う。
こちらを焚くと、台湾で買ったときの空気まで少し思い出します。
香りの名前は同じでも、メーカーや調香によって印象はかなり変わる。
形にも、なんとなく傾向があると感じています。
短く、少し太めのお香は、私には甘く感じるものが多い。
逆に、線香のように細長いものは、甘さ控えめに感じることが多い。
もちろん、これは私が試してきた範囲での印象です。
太さや長さだけで香りが決まるわけではありません。
それでも売り場で見ていると、
「これは甘そうだな」
と、形からちょっと警戒するようになりました。
最終的には、自分の鼻です。
白檀か。
沈香か。
高価か。
老舗か。
そういう情報より、家で焚いたときに落ち着くかどうか。
私はそこを大事にしています。
お香を焚くと、部屋が少し変わる
お香を焚くのは、掃除が終わったあと。
夜。
本を読むとき。
なんとなく部屋の空気を変えたいとき。
少し疲れているとき。
そんなことが多いです。
何か大きく変わるわけではありません。
家具も絵も、そのまま。
でも香りが加わるだけで、部屋の印象が少し変わります。

火を消したあとに残る香りも好きです。
ただし、お香は煙が出ます。
灰も落ちますし、周りの壁や家具にも少しずつ煙の影響は残ります。
火を使うものなので、扱いにも注意が必要です。
空気の展示には、ちゃんと掃除もついてくる。
そこは少し現実的です。
結局、線香の延長線上だった
香道に興味を持って。
京都の老舗へ行って。
三回行っても場違いで。
文香や匂い袋を買って。
それから白檀や沈香、いろいろな香りを試してきました。
でも結局、今いちばん落ち着くのは、昔から知っている線香に近い香りです。
ぐるっと一周して、原点に戻ってきた感じ。
……結局、線香じゃないか。
とも思います。
でも、それでいい。
自分にとって落ち着く香りを、自分の部屋に置く。
目には見えないけれど、その香りもちゃんと暮らしの景色の一部になっています。
絵を飾る。
花を置く。
そして、香りを焚く。
私にとって「住める展示」は、目に見えるものだけではありません。
部屋の空気まで、自分が心地よいと思うものにしていきたい。
お香は、そのための小さな展示のひとつです。
では、また別の展示で。


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